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コーダ(聞こえない親を持つ聞こえる子ども)として生まれ育ち、音楽大学進学を目指す高校生を描いた映画『コーダ あいのうた』。True Colors Festivalでは1月、日本語バリアフリー字幕版の制作協力を行い、特別先行試写とトークイベントを開催しました。
実は、このイベントで手話通訳を務めた武井誠さんはまさにコーダ当事者。音楽も好きで、ろう者・聴者・コーダ混合手話バンド『こころおと』の代表をしています。映画を観て、「ろう者やコーダの世界をキレイに描いていなかったのがうれしかった」と感想を語ってくれた武井さんに、ご自身の生い立ちや、コーダとしての視点を共有していただきました。
3歳から家族の手話通訳を担っていた
Q: 『コーダ あいのうた』の主人公ルビーと同じく、武井さんも聞こえないご両親のもとで育ったそうですね。手話を母語として育ったのでしょうか。
2歳まではほぼ手話だけで育ったようです。2歳前後の頃、親の友人の聴者が家に遊びに来たとき、音声で話しかけられると反応が薄くて、親が「これはまずい」と思ったと聞いています。ずっと家の中でほぼ親とだけ接していたから、外に出かけたときに誰かが会話する声を耳にしても、それを言語やコミュニケーション手段として認識していなかったのではないでしょうか。その後は親の友人が入れ替わり立ち替わり遊びに来て、日本語(※)を教えてくれるようになりました。
※日本手話を第一言語とする聴覚障害者(=ろう者)が使う日本手話は、日本語音声の置き換えではなく、異なる文法体系を持つ別の言語
Q: 聴者でありながら、音声言語が自然に習得できない環境だったのですね。家にテレビはなかったんですか?
それが、テレビはあったけどうちの親は音を出さずに観ていたんですよ。病院の待合室とかでテレビを見かける機会はあったけど、「音が出るタイプのテレビもあるんだな」くらいの認識でした。
小学生になって友だちの家に行ったらたまたまうちと同じ型のテレビがあって、「なんだようちのテレビも音が出るんじゃん!」とびっくりしました(笑)。それまでアニメも戦隊ヒーローものも観ていなかったから、話題についていけず苦労しましたね。
Q: ご両親は「まずは手話を第一言語としてしっかり身につけさせてから日本語を学ばせよう」という教育方針だったのでしょうか。
いや、そんなに深く考えず、シンプルに「親が手話なんだから子どもが手話で育つのはあたりまえ」という認識だったと思います。でも、少し喋れるようになると、3歳からはもう通訳させられていました。5歳のときには自分の学資保険の契約の通訳をした記憶が残っています。
当日はオンラインでインタビューを行なった。
Q: そんなに小さい頃から通訳を……。でも、2歳まであまり音声言語に触れてこなかったのに、ものすごいスピードで習得されたんですね。
たくさん通訳させられたから覚えざるを得なかった、という側面もあります。成長する過程で「自分には抜けている単語や抜けている知識があるな」と気づいたんですが、プライドが高かったので少しでもわからないことがあったらすぐに調べて全部知っているふりをしていました。
小さい頃から通訳をしていると、感覚的には大人と対等というか、「家を守るには僕が表に出ないといけない」という自負や、「僕がわからないことがあると武井家の不利益になる」という強迫観念が芽生えるんです。だから、「ほかの人が知っているのに自分は知らない」という状況に強烈な恥や焦りを感じました。そのおかげで、いまよく周りから雑学王って言われます(笑)。
Q: 子どもながら通訳を担うことを、誇らしく思う気持ちもあったのでしょうか。
それもあります。通訳するたびに大人から褒められていました。でも、自分の時間が犠牲になりましたから。前提として、うちの父は日本人だけど、母はアメリカ人なんです。よく、「聞こえなくても筆談でコミュニケーションを取れるのでは?」と言われますけど、日本手話と日本語は別の言語ですから、(筆談は)日本語を第一言語とする人が英語で話すような感覚なんです。細かなニュアンスを掴み取るのが難しい。母の場合はアメリカ人だからなおさら、日本語での筆談には無理がありました。
ただ、僕が学校で友だちと「何時にどこ集合!」と約束して家にランドセルを置きに帰ると、母から「今日は市役所行くから通訳して」と問答無用で連れていかれるわけです。当時は携帯電話もなかったから友だちに連絡することもできなくて、「バックレた」と思われてしまう。でも、自分が通訳しないと家が回らないこともわかっているから、身が引き裂かれるような気持ちで。
子どもだったから外で手話を使って周りから注目を集めるのも嫌だったし、そもそも昭和の男子小学生にとっては「母親と一緒にいるところを友だちに見られる」ことがすごく恥ずかしいことでした。だから、母とは目的地は同じなのに時間をずらして家を出ていましたね。電車に乗るときも別の車両に乗って、必要最低限の接触で済むようにして。しかも、僕がそんな葛藤を抱えて毎日を過ごしていた一方で、妹は何も考えず無邪気に遊んでいたから、余計憤りを感じました。
幼少期の武井さん(画面左から2番目)
同じコーダでも人によって環境は大きく異なるから、映画の受け取り方も変わる
Q: 妹さんは聴者ですか?
そうです。でも、僕が先に声でコミュニケーションを取ることやテレビから音が出ることを発見していたから、2歳下の妹は僕のような努力をすることなく、日常生活の中で自然と音声言語を習得していったんですよ。妹に「第一言語何?」と聞くと、「え、日本語だけど?」とあたりまえのように返すと思います。
でも、子どもの頃の2歳差って大きいじゃないですか。親も、日本語能力が高い方を通訳として選ぶわけです。だから、いつまで経ってもずーっと僕だけが通訳係。これはコーダあるあるみたいで、周りのコーダに『コーダ あいのうた』の感想を聞いたら、次男次女は「ふうん?」という感じで、長男長女は共感しまくって号泣したって。同じ境遇でも、第一子かどうかで違いが出るんですね。
Q: 同じコーダでも、人によって環境は大きく異なるのですね。
環境によっては、日本語を獲得するチャンスを逃し、聴者なのに上手く喋れなかったり、難しい漢字の読み方がわからなかったりする方もいます。通訳として子どもの時間を奪われた苦しみをずっと抱えている方もいる。同じコーダの友人で、「『コーダ あいのうた』を観て簡単に『コーダは可哀想、頑張ってる』とか『ハッピーエンドでよかったね』なんて言ってほしくない」と激しいトーンで感想を綴っている方もいました。それくらい、複雑な心境なんです。
Q: 社会には、コーダの子どもが親のために手話通訳をすることを「美談」のように捉える目線もありますよね。
最近になってようやくヤングケアラーの問題が注目されるようになったけど、僕が子どもの頃はそんな言葉もありませんでした。聴覚障害者は見た目で健常者と違いがわからないから、軽く見られてしまいます。
目を向けてもらったとしても、注目されるのは障害当事者です。コーダは常に当事者の環境の一部として扱われてしまう。もちろん、コーダは聴者だし、障害者ではありません。でも、言語獲得の課題やヤングケアラーとしての課題を抱えている。そのことは知ってほしいですね。
手話サークルに入り、初めて手話ができてよかったと思えた
Q: 大学では手話サークルに入られたそうですね。
そうなんです。思春期には手話もろう者も大嫌いになっていたけど、手話サークルがあるとなるとと気になってしまって。「手話に興味あります?」と聞かれて、「興味あるっていうか……できますけど?」みたいな(笑)。初心者の子が一所懸命「私の、名前は……えっと……」と手話でぎこちなく自己紹介している中で流暢な手話を披露して、「えっなんだコイツ、すごい!」と尊敬の眼差しを向けられました。
初めて手話で同世代と話して、初めて手話で同世代から「すごい」という評価をもらえたんです。若い頃って、大人から褒められるより同世代から感心されるほうがうれしいでしょう? それでもう気持ちよくなっちゃって、そのまま手話サークルに入りました(笑)。
Q: 一躍ヒーローになったんですね。
ところが、です。ろう者の友人と手話で話していると、ときどき顔をしかめられるんですよ。「なんだろう?」と思って聞いてみると、「お前の手話、気持ち悪い」と。さきほど、僕の母はアメリカ人だと言いましたよね。僕が日本手話だと思って使っていたのは、日本手話とアメリカ手話のミックスだったんです。だから、日本手話を使う相手からすると、会話の端々に英語を挟んでくる嫌味な帰国子女みたいに見えると。衝撃を受けました。
自分が手話サークルで持て囃されるのは「手話ができる」という一点のみなのに、変な手話を使っていることがバレたらヤバい。そう思って、速攻で手話辞典を買って片っ端から読んで日本手話を勉強していきました。そうすると今度は親とのコミュニケーションがちょっとズレていって、僕よりも手話のスキルが低い妹の方が親とスムーズに会話できるという逆転現象が起こりました。
聞こえない友人に音楽の楽しさを伝えるにはどうすればいい?
Q: 大学生になってからもご両親の手話通訳は続けていたのですか?
いえ、大学に入る直前くらいに、やっと僕が住む自治体でも手話通訳派遣制度ができて、親に「もう俺は通訳やらないからな」と言いました。突然呼び出されることもほぼなくなり、ようやく自分の時間を確保できるようになったんです。
それで、バンドも始めました。僕も『コーダ あいのうた』の主人公と同じで、音楽がめちゃめちゃ好きなんです。幼少期に一切音楽に触れてこなかった反動で色々聴きまくりました。爆音で音楽を流しても怒られない環境でしたしね。
で、あるとき有名バンドのライブに行ったあとサークルの飲み会に参加して、テンション高く「すっげえ良かったよ!」と伝えたんです。そうしたら、聞こえない友だちは「あっそう」という感じで。「今をときめくあのバンドのライブだぞ!?」と説明しても、「聞こえないし知らない」と返されて「う〜ん」となってしまいました。
二十数年ろう者と暮らしてきたけど、そのとき初めて「そうか、ろう者って音楽を楽しめないんだ」と胸にぶっ刺さったんです。映画だって、一切BGMなしで観るんですからね。僕らは「♪ターンターンターンタータター……」という音楽が流れてきたらすぐにダースベーダーが頭に浮かぶでしょう。ろう者にはそれがない。エンタメにおいて、音に関する情報が一切ないというのは致命的です。
『コーダ あいのうた』にも、ろう者のエンタメ作品の受け取り方を想像させるシーンが挟まれていた。
『コーダ あいのうた』アメリカ|2021年|112分|PG-12
配給:ギャガ GAGA★© 2020 VENDOME PICTURES LLC, PATHE FILMS
Q: 当時は代替手段がほとんどなかったのですね。
その事実にぶち当たって、僕は若さもあって、なんとか友人に音楽の楽しさを伝えたいと思ってしまったんです。まずは自分の好きなアーティストのライブに連れて行って、手話で曲やMCについて説明したのですが、いまいち伝わらなかったし、自分も疲れました。それならと聞こえない人も楽しませるパフォーマンスをしている人を探したのですが、童謡のようなジャンルばかりで、大学生が楽しめるものではありませんでした。
そこで僕は、自分が手話で歌おうと思ったんです。ちょうど学祭の出し物を決める時期だったから、ライブをやろうと提案しました。自分たちが好きなジャンルの曲を生のバンドで演奏して、そこに手話もつけようと。サークル外から楽器できる奴を呼び込んで3か月練習しました。1曲はDragon Ashで僕がボーカルと手話で歌う。もう1曲は女性ボーカルが歌い僕が手話をつけ、音をダンスで視覚的に表現する。「どう見たってこれはかっこいいだろ!」というステージになって、鼻高々でろう者の友人に感想を聞いたら、「微妙」と言われました。
Q: なんて正直な感想!
僕は単純に歌のリズムに合わせて手話で表現すればいいと思ってしまったけど、ろう者にはメロディが聞こえないから間延びして見えてしまうんですね。聴者がお経を聞く感じでしょうか。「ただ歌を手話にするだけじゃダメなんだ」と気づきました。でも、例によってプライドが高くて負けず嫌いだから、「よしわかったもう1年くれ、来年の学祭ですげえもの見せてやるからな」と言って、1年かけてどう音を視覚化するか研究し、準備しました。
まず、ほかのサークルにも声をかけて演奏曲を8曲に増やし、ゴリゴリのロックにパンク、スカ、バラードと色々なジャンルを詰め込みました。そうすれば1曲でも響くものがあるんじゃないかと思ったんです。
衣装は曲に合わせてベタなものを用意して、照明も緻密に計算して、演奏も「サビに入ったらみんなで頭を振るぞ」と視覚的に演出しました。音の振動を伝えるためにお客さんには風船を抱えてもらって、客席には友人を仕込んで曲のタイミングに合わせて腕を上げたりしてもらって。振動を感じて、それに合わせて身体を動かして、会場全体との一体感を得る。そういう体験を味わってほしかったんです。
Q: 反応はいかがでしたか?
いろんなサークルを巻き込んだこともあって、来場者数は芸能人が出演した出し物を超えました。フェスみたいな雰囲気で、モッシュ(観客が身体をぶつけ合って音楽に乗る現象)まで起きていて。きっかけになった友人も、聞こえない友だちを数人連れてきてくれました。「どうだった?」と聞いたら「おもしろいかも」と返ってきて、「イエッス!」とガッツポーズしましたね。
大学を卒業して間もない頃の武井さん(画面中央)、バンドメンバーとともに
Q: 1年かけて、目標を達成できたんですね。
そのときの、聴者もろう者もごった煮になって暴れる空間の楽しさ、気持ちよさ、かっこよさ。このエネルギーあるパフォーマンスを1回きりで終わらせるのはもったいないと思って、メンバーに「これ、バンドとして続けない?」と提案しました。それが『こころおと』のはじまりです。
仕方なく手話通訳をして周りからチラチラ見られるんじゃなくて、自分が「ここを見て!」というタイミングで手話を出して見てもらえる。これまでろう者や手話に触れてこなかった人が、「手話ってなんかかっこいい」と言ってくれる。
「音楽なんて自分たちには関係ないもの」と思っていた人が、ノリノリになってモッシュまでしちゃう。それが本当にうれしかったんです。
コーダのポジションはここにあるのかな、と思いました。ろう者と聴者の世界を行き来して、「こっちの世界にはこんなものがあるんだよ」と伝えたり、つなげたりする。聞こえる国の大使であり、聞こえない国の大使でもある。コーダであることや手話を使うことを、ようやくポジティブに捉えられるようになったんです。
コーダ当事者は映画『コーダ あいのうた』を見てどう感じたか。手話通訳士兼手話バンド『こころおと』代表・武井誠さんインタビュー(後編)
武井誠(たけい・まこと)
1976年東京生まれ。手話通訳士。文教大学非常勤講師。両親ともろう者の家庭に生まれ、手話のネイティブサイナー「CODA(コーダ)」として育つ。手話と音楽の融合を志し、大学在学中に手話バンド『こころおと』結成。SPEEDや藤田恵美など様々なミュージシャンとの手話とのコラボレーションを行う。卒業後音楽活動の傍ら日本テレビ系『新・星の金貨』やTBS系『すずがくれた音』等のテレビドラマの手話指導、『バベル』や『ゆずり葉』などの映画協力、劇団かしの樹による『みるコンサート』公演の手話監修・通訳、企業での手話コーディネート、各地における手話教室の講師等も行っている。またTOKYO2020オリンピック・パラリンピックにて手話通訳統括として参加。