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Bベン・プライスは最新技術を応用したバイオニック・ポップ・アーティスト、ヴィクトリア・モデスタのマネージャーです。彼が患った退行性眼疾患がツアーマネージャーの仕事に与えた影響、キャリアを失う恐怖から口を閉ざしたこと、そしてその恐怖と向き合い、公に声を上げるようになった過程についてのエッセイが届きました。
視力への疾患が判明したのは数年前、まさに働き盛りの時でした。ツアーマネージャーとして実績を積み、それが天命だと思えるようになっていました。新規クライアントも増える一方で、スケジュールは長い先まで埋まっていた頃です。
自分の目がおかしいと気づいた瞬間をはっきりと覚えています。前のバンドの演奏が終わり、サウスハンプトン・ギルドホールでの大トリを飾るのは私が担当していたバンドです。30分の転換が始まってすぐ、無線で連絡を取りました。「照明をもっと明るくしてくれ!」と。
確かな違和感がありました。その日まで私の視力に問題を感じたことはありませんでしたが、急に全てが暗く感じたのです。自分の周りが認識できません。技術チームから無線が戻り、照明は前夜まで続いていたライブと何も変更していない、と知らされました。
周りの人間に見えているものが、自分には見えていないという混乱と恐怖の中、なんとかそのステージは乗り切りました。演奏後、ステージ裏の明るく照らされた通路に戻り、すぐさま家族に連絡を取りました。
私の家系に遺伝性の眼疾患があることは知っていました。網膜色素変性症(RP: retinitis pigmentosa)という遺伝性の疾患で、徐々に視力が奪われ、多くは完全な失明に至ります。私の祖父の視力は非常に悪いものでしたが、私自身は30代まで何も問題がありませんでしたので、運良く病気を逃れたのだと思っていました。
網膜色素変性症は、主に夜間の視力に影響します。それはつまり、私の日常そのものであるライブの現場の全てに影響するということを残念ながら意味していました。発症当初はなんとか働いていましたが、やがて暗い現場で働くことは困難であると判断しました。車の運転を断念したことで仕事は半減しました。バンドによってはツアーバスや運転手を雇う予算がありましたが、多くのバンドはツアーマネージャーと運転手の兼任が必須なのです。
網膜色素変性症の視界のイメージ
私の障害は目に見えてわかるものではなかったので、共有する相手は慎重に決めることにしました。クライアントに知らせると、仕事が減ってしまうと考えたのです。クライアントを責めるつもりはありません。どのツアーも予算に余裕がないことは知っていましたので、ツアーマネージャーとは別に運転手を雇ってくれとお願いすることはできません。
バックステージの暗い環境の中で症状を隠すことにも難儀しました。視力が弱まるにつれ、周囲が気がつくことが増えました。搬出作業中に高価なギターを倒してしまったり、数えきれないほどドラムの台にすねをぶつけたり。一番最悪だったのは、転んだり、ぶつかったりすることに対して勤務中の飲酒を疑われたことです。
そんなことが続いても、雇ってくれたアーティストやプロモーターには自分の状況を打ち明けられませんでした。「言えるはずがないじゃないか。『障害』って聞いたらみんなどう思うだろう?」そう自分の中で考えていたのです。
どうにか切り抜けようとしていました。足元にもう少し気を配れば、疑惑は持たれないだろうと思い込んでいました。今振り返ると、その思考はどうかしていました。
私の周りはサポートを惜しまないであろう良い人ばかりでしたが、それでも障害に対する偏見があるように感じ、自分の症状を隠すべきだと思いました。その考えがどうして生まれたのかはわかりません。障害者差別が内在化されていたのだと思います。それまで、一度も誰かと障害について話したことはなく、障害について言及すべきでないとも感じていました。それに「弱い」と思われてしまうのでは、と恐れていたのです。
この自己否定は長い間続きましたが、視力が弱まるにつれ新しいプランが必要だと気づきます。どうしたって私のキャリアをこのまま続けられることはないのです。そんな折に、アーティストマネジメントをする機会がありました。以前ツアーマネジメントした数名のクライアントが、マネージャー不在の間だけ埋め合わせしてくれ、と頼んでくれたのです。そのうちの一人が、「世界初のバイオニック・ポップ・アーティスト」と知られていたヴィクトリア・モデスタです。ヴィクトリアとは毎日のように障害について話し、一緒に働くようになって3年も経っていましたが、それでも自分の目の状況を彼女に伝えることはありませんでした。
その頃の計画としては、ツアーマネジメントをなんとか数年続け、その間に新しくアーティストマネジメント業務を立ち上げるというものでしたが、パンデミックが起こり全てのライブスケジュールが掻き消えました。
ひらめいたのはその最中です。アーティストマネジメントを本業とするのなら、障害のあるアーティストのマネジメントに集中し、ポップカルチャーにおける障害者の活躍を増やすべきじゃないか?障害をテーマとした表現の世界と、メインストリームの音楽の世界とをつなげる仕事をすべきじゃないか?その時まで、こうした考えは湧きませんでした。
不思議なことですが、パンデミックは自分の状況と向き合い、自分の目に起きていることを受け入れる時間を私に与えてくれました。今は自分の障害について話すことに抵抗はありません。また、なぜ長いことそれを公表できないと感じていたか、その理由について考えられるようになりました。
今振り返って思うのは、もっと早く、人に素直に伝えられる勇気が欲しかった、ということです。同じ仕事を無理に数年間続けることはできましたが、精神的にはとても苦しい日々でした。とあるライブハウスの照明と相性が悪く、難しい1日になるとわかっていながら出勤することは憂鬱でした。しかし、当時の私が考ええたのは、仕事を辞めるという極端な選択だけです。もし自分のチームに自分の症状を周知できていたら、些細なミスをするにもそこまでストレスを感じなかったかもしれません。きっと周りももっと寛容でいてくれたでしょう。
でも、私のストーリーは全てがネガティブなことではありません。ツアーマネージャーとして働いていた頃、自分の症状を打ち明けたことが2度だけありましたが、そのどちらも本当に肯定的な経験でした。あるプロモーターは運転の必要がない仕事だけを振ってくれましたし、あるアーティストは私のためにセッションミュージシャンたちに運転をお願いしてくれました。
仕事仲間からのポジティブな反応は、私に病状を公表する勇気を少しはくれたものの、実際にそうすることはありませんでした。ライブのツアーメンバーというのは、次にいつ仕事があるのか、見通しのつかない業種です。次のツアーに声がかからないリスクはどうしても避けたかったのです。
当事者としてのこうした経験は、アーツカウンシル・イングランド助成プロジェクトの一環として、音楽業界における障害の未来をテーマにした文筆作品として提供しています。
障害がある、あるいは慢性の健康障害がある、と自認する約150人の音楽関係者にアンケートを取りました。71%の方の症状は可視できないものであり、そのうち88%は自身の症状を仕事相手に「まれに開示する」あるいは「開示しない」と答えています。そのうちの69%が、「まれに開示する」あるいは「開示しない」ことによって、自身の健康と安全を危険に晒したと述べています。
この統計は全てを言い表しています。つまり、音楽業界で自分の障害を公表しにくいと感じているのは、私だけではないということです。サポートが必要だと周囲に伝えられていたら、ツアーマネジメントの仕事ももっとストレスなく行えたかもしれません。
また、私が実施したアンケートをもとにメディアの障害の扱い方にも異議を唱えたく思います。よく耳にすることですが、メディアは「障害の悲劇」は声高に伝えますが、「障害者のエンパワメントとインクルージョン」には重きを置きません。この点はアンケート回答者の85%が「同意」あるいは「強く同意」しています。
私が話を伺った障害者のあるアーティストたちは、皆共通するメッセージを発しています。それは、「自身の障害が誇りである」ということでした。障害が自分を定義することはないからだと言います。作品よりも障害について語りたいアーティストはいないのです。
しかし、私が担当する障害のあるアーティストがメディアからインタビューを受ける際、大概の記者が聞きたがるのは彼らの「不運の」ストーリーです。メディアが障害ではなくアーティスト自身に興味を持つようになれば、障害のある若者がメディアから受け取るメッセージも変容し、次世代が音楽業界を目指すきっかけも増えるのではないでしょうか。
では、音楽業界に従事する障害のある人にスポットライトが当たることが少ない原因はなんでしょうか?あるいは、音楽業界で働く障害のある人たちが、自身の症状を公表したくないと感じる原因は?
私のアンケートでは、「可視できる障害のあるロールモデルの不在」が起因しているのではないかという仮説を立て、回答者の90%が「同意」あるいは「強く同意」する結果となりました。
若い年代が音楽業界での活躍を信じられない原因が、「同じような立場の人間がいないから」ということであれば、この不平等の改善はすぐには期待できないでしょう。今後音楽業界を目指すかもしれない次の世代が受け取るメッセージをまず改革しなければなりません。
音楽業界、ひいては他の業界でも、障害にまつわる偏見を取り除く様々な方法があるはずです。それらを地道に重ねることで、より多くの人が自身の症状を打ち明け、必要なサポートを得ることができるようになるかもしれません。
私自身としては、以前よりはるかに自分自身と向き合えています。業務は明るく照らされた机上で行われ、重い気持ちで朝を迎えることはなくなりました。
一方、収入は減りました。経験を積んだ多忙なツアーマネージャーから、新規事業の事業主となるにはそれなりの痛手はあります。しかし、持続不可能な仕事をしていると感じるよりもはるかに受け入れやすい事柄です。昔は、隠しきれなくなるまでツアーマネージャーとして移動する日々を送ろうと考えていましたが、前向きな決断を下せたことを嬉しく思っています。
可視できない障害のある人にとって、自身の症状を開示することは非常に個人的な判断ですし、各々の生活状況にも左右されます。ですので、私は他の人にも公表すべきと諭したいわけではありません。私がこうして声を上げるのは、業界全体に声が届くことを願っているからです。音楽業界における障害について話し合う機会が増えれば、業界そのものがより多くの人へオープンになり、それはまた人が自身の障害について話す勇気を与えるでしょう。
*ベン・プライスは障害をテーマにしたアートを広く扱う音楽マネジメント・カンパニー、ハーバーサイド・アーティスト・マネジメントを運営している。