True Colors DIALOGUE
「「私がこれまでに体験したセックスのすべて」を鑑賞して」True Colors DIALOGUE-レポート:戸田真琴
公演の様子(撮影:冨田了平)
「私がこれまでに体験したセックスのすべて」を鑑賞して
戸田真琴
ほんとうのダイバーシティについて、わたしたちはきっとまだまだ知らないことがある。そう思ったのは、やはり今回観劇することになったこの試みの概要に、まだまだ新鮮に驚く自分がいるからだった。
これから初対面のシニアたち5名のセックスに関わるすべての物語についての鑑賞レポートを書くにあたって、ひとつの礼儀として私も自らのことを少しだけ話そうと思う。私は性的なことに不寛容な家庭で育ち、小中学生の段階から放課後遊ぶ集団の中に男の子が含まれると「男の子の家に行ったんじゃないでしょうね」などと問い質されるなかで、男性について・そしてセックスについての情報がほとんど耳に入らないまま思春期を迎えた。母親には異性経験での失敗があったらしく、「男は狼なのよ」などというファンタジックなセリフを聞かされたことさえ我が家ではナチュラルな出来事だったことを覚えている。そのまま大人になり、いざ恋のようなものをしても何一つ作法を知らない自分に幻滅し、処女であることをこじらせて「いっそ記録してしまおう」などといった気持ちもありアダルトビデオへの出演を決めた。いざアダルト女優にはなったものの、撮影時以外の一般的なセックスについての情報はいまだにほとんど耳に入ってこず、私自身も「仕事以外ではセックスの話ができない」矛盾だらけの女として性については至極品行方正に日々を送っている。
そんな私がお声がけいただき、2019年にTrue Colors Festivalに主体的に参加する機会があった。出演者側として、「True Colors Academy」に振付家・ダンサーの砂連尾理氏、医師の稲葉俊郎氏と共に参加者の方々と対話をした日のことをよく覚えている。普段交わることのなかった方々と共に様々なワークを通して感覚をプリミティヴに揺り戻しながら、最後にはアダルトビデオに出ている自分の話を、半分悩み相談のような心地よさで自然と話していた。そこにある自己矛盾や葛藤のことも。体感として、他者に心を開くってこういうことなのだ、ということを改めて知った気がした。ありとあらゆる事情を持つ人たちが皆、「自分は受け入れられている」「心を開いてもいいと思った時に、安全な状態でそれを選択することができる」そういった前提でそこに居ることができれば、そこはなんて身軽で自由なのだろう、と思ったのだ。私のTrue Colors Festivalに対する印象は、そういった明るく自由なものだった。安全で風通しの良いシェルターみたいな、そういう場所。
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スタッフ、出演者がモニターに映るママリアンのメンバーに向けって拍手を送っている様子(撮影:冨田了平)
「私がこれまでに体験したセックスのすべて」は、表参道のSpiral Hallで4日間に渡って上演された。会場にはまさに老若男女が混ざり合って席についていて、私が見渡した限りでは極端な偏りも見られなかった。それどころか、すぐ後ろの方からは未就学児と思われる子供の声も聞こえた。ステージには長机に5つの座席が作られ、感染症対策の仕切りも設置されていた。頭上ではミラーボールが落ち着かなそうにぶら下がっている。
開演前には数人のスタッフがステージ横に立ち、手話翻訳の際の登場人物の呼び名を丁寧に説明してくれる。ステージ後方のスクリーンに表示される字幕の配慮は、ADHDゆえにぼうっとして人の話を音声のみだと聞き逃してしまうことの多い自分としてもとてもありがたかった。
サウンドデザイナー・司会を務める入江陽氏の流す音楽で、今回のメインキャストであるシニア5人が入場してくる。はる、吉良、ゆき、まさこ、はなはそれぞれにこやかに登場し、出身地と共に自己紹介をする。また、横のモニターには演出・脚本のママリアン・ダイビング・リフレックスから3名がライブ通話の状態で映っている。今回の演出指揮もオンラインで行ってきたそうだ。公演スタッフとママリアンのメンバー・そしてキャストたちには不思議な明るい連帯感があり、コロナ禍でも海を越えて重要な絆が新しく結ばれているという事実に心が癒されるのを感じた。
そして、その明るい連帯感を我々も手にすることが可能だということが示されることとなった。それが、大勢の前でセックスについて語ること、そしてそれを聞くこと、その試みのもつ魔法のような力だったのだ。
私たちは他人の話をただ聞くつもりで、あるいは人の人生の持つある種のドラマ性を一方的に楽しむようなつもりでここへやってきたはずだった。少なくとも私はそのくらいの気軽さでいた。しかし、気づけば一斉にひとつのことを誓い合っていた。「今日ここで語られることは、絶対に口外しないということを、自分の”性器”に誓って約束します。」そう、皆で誓いを立ててからでなければ、「わたしがこれまでに体験したセックスのすべて」は、始まらないらしかった。
これまでさんざん人生を性器にふりまわされてきたけれど、こいつに何かを誓ったことなどあっただろうか。しかしここに来たからには皆、大真面目に誓っていた。私はこの老若男女をじろりと見渡しながら、それぞれについている性器を想像した。ほんとうにいろいろな色と形と物語があるのだろうなと思った。
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公演の冒頭、出演者、スタッフと共に「誓い」を立てる客席の様子(撮影:冨田了平)
入江氏の流す音楽で、時代の空気がむわっと広がる。1940年代、私が生まれるずっと前の、想像も難しいほどの、でも確かにあったその時代に、彼女ら、彼らは生まれた。一年ずつ辿ってゆくから、それぞれの生まれ年になるとまた新しく該当の演者が喋りだす。皆より少し年下の演者は、生まれる年までは黙っている。それぞれに、生まれるという瞬間は祝福の色をしていた。晴れやかでうれしかった。
セックスのすべて、というのはなにも、思春期を超えた性交渉の機会のみをさすのではない。セックスとは、性そのものの意味を持つ。日本では特に、セックスという言葉が偏って「性行為」の意味のみで扱われていることも少なくないことを、改めて感じる。彼ら彼女らは、幼少期からの性自認への疑問や、性教育を受ける以前の性への印象といった不確かな性の記憶までをもおぼろげながら打ち明けていく。そうだ、生まれおちたその時から性ってずっと一緒にいたんだな、性を通していろんなことを思ったな、と改めて、懐かしい気持ちになる。こんなにずっとここにあったものを、まるで無いように扱って誰にも話さないのは、すこしかわいそうだったな。とか、自分の性器に情を抱いたりもするのだった。
初めてのマスターベーションの経験について言及がなされると、会場がぱっと明るくなった。そして、「この会場の中で、モノを使ってマスターベーションをしたことがある方、手をあげてください」という質問がされる。嘘がつけない性格のため、わたしも反射的にちいさく手を上げてしまったけれど、”性器に誓う”って、こういうことだったのか!とようやく腑に落ちる。自分の中の、体内に通じるぬるっとしてやわらかい場所、あるいは、粘膜としての急所。そう、性器というものは、表皮ではなく粘膜、そして表層に露出した内臓なのだった。それを見せ合うということは、すなわち、弱みを見せ合うということ。そして、尖った爪でひっかかれたら一発K.O.なその場所を、ここにいる人たちは引っかかないと誓い合ったから……という理由で、一度信頼し、見せ合う勇気を持つということだったのだ。
指名された人々はタブレットを通じてママリアンのメンバーとコミュニケーションをとりながら、案外リラックスして自身の経験を話していく。正確に言えば、話せば話すほど、聴けば聴くほど、いろいろなところがほぐれていく感覚があった。私たちは皆、他人に粘膜を見せ合うような危険な行為を、それでも好奇心や本能で、経験してきたのだ。それ自体がどこかとてもファンタスティックで、生の実感を伴うことのように思えた。
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タブレットで中継された笑顔のママリアンのメンバーに向かって、質問に答える観客の後ろ姿(撮影:冨田了平)
キャストである5人も、会場の人々も、あたり前にセクシュアリティも性癖も、超えてきた性体験もばらばらだ。もちろん、多様なセクシャリティやジェンダーのあるキャストたちはシニアになるまでに悩んでいる描写ももちろん多いが、おもしろい経験もやまほど持っていた。また、シスヘテロであったとしても、よくある異性愛の形はしっくりこないという場合もある。とにかく全部が違っていて、彼女ら彼らを縛る言葉などどうやっても探せず、自分が自分だということを示す言葉はそれぞれの人生に対してオーダーメイドするほかないのではないかと思った。世の中に、ダイバーシティを謳い細分化されたラベリングがいかに溢れているかということにも気づく。私たちは、人の数だけ種類があるという以上の分類は、終ぞできぬまま鮮やかに生きてゆくほかないのかもしれない。それは頭上に輝くミラーボールが最後に光りだすあの瞬間に、新しくなつかしいひらめきとして会場に降りそそいでいた。
この公演の日60~70代のシニアであった演者たちの人生は、2021年では終わらない。今目の前で弱みを見せあった我々を超えて、物語は未来へと進んでいった。2040年代……語られる数々の未来からさまざまな性を生きる彼ら彼女らの報告に、途方もない気持ちになりながら聴き入るしかなかった。
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出演者や通訳者らがミラーボールの下で踊っている(撮影:冨田了平)
演者たちがスポットライトで照らされ、頭上にはミラーボールがくるくると回りながら星のように光をばらまいている。私はどうしようもない気持ちになって涙が出た。何か大いなるものに許されたような、変で、とても晴れやかな涙だった。
経験は大事だというけれど、たとえば粘膜をみせたら傷がついてしまったというようなそんなとき、いったいどうしてそれを大事な経験とすぐに言い換えることができるだろうか。傷なんか、つかないほうがいいに決まっているのだと、そういう風にしか思えないときもきっとある。大事な人にも傷ついて欲しくはないし、怪我を縫いとめたり破れた皮膚をつぎはぎしてきたことを恥だと思う日さえもある。きっと誰もがそうだろう。私たちは皆傷ついているし、そのことを、どこかで、はずかしいことだと思ってしまう。
だけれどどうだろう。今この表参道のとあるホールの中で、それぞれの傷を抱えて来たわたしたちは、最後には皆明るいオーラに包まれていた。”どんなことがあっても生きていく”という綺麗事は自らこの世を去ってしまう人も後を絶たないこの時代にはいささか乱暴な言葉に感じるけれど、少しだけ言い換えるならば、”あんなことがあっても、生きている”のだ。
ああ、私たち、あんなことがあったのに、生きているね。そう心で呼びかけると、「まだまだいろんなことが起こるんだよ。」と暗に言われたような気さえした。
ここで聞いたことは誰にも話さないけれど、ここでほんの少しだけ、人生の小さなお守りになるような想いを得たことは、ここに記録しておくことにする。
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ライトが客席の方を向き、強い光に照らされる客席の様子
戸田真琴(AV女優 / 文筆家)
2016年に活動開始。現役AV女優としての活動と並行して執筆活動を行う。セルフスタイリングでの作品撮りやディレクター業にも挑戦中。
連載に『肯定のフィロソフィー』(TV Bros.)、『戸田真琴と性を考える』(Fika)。既刊に『あなたの孤独は美しい』(竹書房)、『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』(角川書店)。監督作品にオムニバス映画作品『永遠が通り過ぎていく』がある。
Instagram:https://www.instagram.com/toda_makoto/
True Colors DIALOGUE ママリアン・ダイビング・リフレックス/ダレン・オドネル『私がこれまでに体験したセックスのすべて』
「◯◯にとっての私」と「私にとっての私」
セクシー女優/ True Colors ACADEMY LECTUREシリーズ「からだのミカタ」出演者